雑草という草はないけれど、それでも雑草と呼ぶ文化があってもいいかもしれない

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先日某SNSを眺めていたら、「『孫子』には当たり前のことしか書いてない」という書き込みを見つけました。『孫子』といえば、言わずと知れた中国春秋時代に呉の闔閭に仕えた孫武による兵法書。初めて『孫子』を読んだとき『霊枢』にある言葉がそこかしこに散りばめられているのを見て、ああこれが『黄帝内経』を読む一助になるのではと胸を高鳴らせたことを思い出します。ただ読み進めていくと同じ言葉なのに全然違う意味で使われていたり、そもそも自信満々に病を語る『霊枢』に比べて負けないよう滅びないよう時に君主を排除してまで現場の規律を重んじようとする『孫子』の思想は『霊枢』のそれとは相反するものも少なくなく、なんなら戦争の正当性を主張しながら黄帝を崇め奉りだす『孫臏兵法』の方が兵法実践的だけれどもよっぽど『霊枢』の思想に近いのかもしれないし、もっと言えば巫術を六不治のひとつに挙げた扁鵲にだって似てくるんじゃないかなあ、などと考えながらそのまま本を閉じた記憶があります。

もっとも、戦争でも治療でも、計画通りに展開し順調に進捗しているようなら英雄的武勇伝は必要ありませんからね。武勲が必要なのは概して形勢が不利な証拠だとかなんとか。そんな『孫子』へのSNS上の論評が、創造的思考へと導かれるための批判的思考の一つなのか、いわゆるバーナム効果に近しいものなのか、はたまたただのひねくれものの所業なのかはさておき、そういえば専門学校時代に当たり前で常識的なことが問われている(はずの)国家試験で六割正答するのにヒーコラ言ってた身分からすると、二千五百年という時を超え今でも当たり前と言われる書物を残してくれた先人の叡智にはただただ平伏するところです。

そんなことを思いながら古代ローマ時代の生活様式に関する文献の解説本を読んでいたら「それが驚きだったからこそ、それが珍しかったからこそ、記録に値する話、当時の読者の興味を引く内容だと判断されたのであって、裏を返せばほとんどがそうではなかったという証拠であり当時の一般を推測する手掛かりにはならず、そうでなければ当時の読者が興味をもって読むはずがない」という内容の文章に目が留まりました。おお、イエロージャーナリズム。犬が人を噛んでもニュースにならないけれど人が犬を噛めばニュースになる、とはよく言ったものです。私たちが今読んでいる古典ははたしてどういった判断で記録されまた表現物として書籍化されたものなのかしら。

現在の科学によると、後天的に獲得した形質は遺伝しない、ということになっています。だから、キリンの首が長いのはキリンの祖先が頑張って首を伸ばして高いところの葉っぱを食べていたからではないし、ゾウの鼻が長いのもゾウの祖先がワニとの戦いで鼻を引っ張られ続けたからではないし、ウサギの耳が長いのもウサギの祖先が神様にお願いしたら耳だけ大きくされちゃったからではないし、ネコの足音がしないのもネコの祖先のときにフェンリルを縛るためにグレイプニルの材料に使ったからではありません。実際アウグスト・ヴァイスマンがマウスの尾を切り落としその子に尻尾の短いマウスが生まれるかどうかという気の毒な実験を二十世代千五百匹にもわたり続けたときも尻尾がわずかに短いマウスでさえ一匹たりとも認めることはできませんでした。それは記憶や知識学習においても同様で、どんなに親や祖先が勉学に勤しんでくれたとしてもそれが子供に遺伝することはありませんから、実際には環境その他生物心理社会的な影響は避けられませんが、人間誰しも自らの力で知識を積み重ねなければなりませんし、また積み重ねることができるとされています。最近の研究ではマウスや線虫、キイロショウジョウバエやアメフラシを使った実験において親世代の学習効果が最大三世代くらいまでは遺伝するのではないかという可能性を示唆する学説もあるのですが、エピジェネティクスの領域に踏み込むと個人の努力を否定しかねない倫理的な課題もありそうなのでなんともはや剣呑。

知識の習得や学習する能力は人間だけに備わった特殊な能力ではないので人間以外の動物も学習しますが、人間には言語を使用する能力も備わっているので他の動物に比べるとはるかに高度で知的な学習を行うことができるとされています。特に文字言語を媒介にすることで世代を隔てた知識を獲得することもでき得るので、見たことも会ったこともなく、場合によってはそもそも実在するかどうかすらわからなかったりする人が書いたらしい、などといわれる何千年も前の知識でも、書物を通じて今獲得しあーだこーだ好き勝手いうことができるわけです。

さて一体なぜ人間は言語を使用することができるのか、人類はどうやって言語文法を構築してきたのか、などの疑問については、すでに親や周りが文化としての言語を使っている以上タイムマシンを完成させるか生まれた瞬間に赤ん坊を世間から隔離遮断して観察するなどそれこそ倫理的に問題のある手法を選ばない限り判明することは難しいでしょうからここは避けるとして、言語に高度な学習を可能とする思考の道具としての一面があるのは間違いないところでしょう。

未開の地の原住民はカタコトで単純で原始的な言語を話すようなイメージに思われることがあるかもしれませんが、大体においてそれは正しくない認識だとされています。ただ、一般に知識の背景を共有できている親しい人間関係において身近な物事について話すときは短く単純でくだけた表現を使うといわれます。言語の習得に関する理論についても、古くは他の学習と同様に捉えられた学習理論であったり、そうではなく人は言語習得装置をもって生まれてくるとする変形生成文法理論、近年では社会語用論的知識による用法基盤モデルによっても説明されてきました。いずれも言語は仲間内において情報伝達を行うコミュニケーションツールとしての機能を前提とするものであって、言い換えれば仲間内でさえ通じるのであればコミュニケーションの道具としての言語は機能するということになります。これは、社会的存在である人間が他者と情報伝達をするというだけの意味に制約されず、ポライトネス理論などで説明されるようにポジティブにもネガティブにも人間関係をより円滑にさせたり逆に距離を取ろうとしたり、説明したり懇願したり恫喝したり一般的でない珍しい内容の文章を表現することで注目を集めたいなど様々な形で目的や意図を持つ言語行為としての機能を併せ持つことまでをも意味します。それどころか、人間の脳は社会共同体の中で一緒に生きているほかの仲間の意図や動機を理解し場合によってそれを操作する必要性から発達した、とコミュニケーションのための言語の働きによって人類が進歩したのだと逆説的に主張する論まであったりします。いずれにせよ、思考の道具として使うことのできる言語ですが、そこには仲間内コミュニケーションの道具としての言語の働きが前提となっているのです。

言語は単に文字を認知したり単語を認知したりして文章を伝え認知するためだけのものではなく、言語を通じてその背景にある文化や思想までも読み取ることのできる、具象世界から抽象世界へと羽ばたくための知性の翼といえるものです。「雑草」という単語の概念にも、感覚や知覚に基づく具体的な体験が抽象化された論理的推論が隠されているかもしれないわけで、そしてそれは単に思考の道具としての言語に留まらず、社会を構成するためのコミュニケーションの道具としての言語の働きを期待できるものかもしれません。

コミュニケーションや人間関係において他者の心の存在は推測でしかありませんが、私たちはそれがあると言う前提で生きています。私たちの社会はきっと推測によって成り立たせていくことができるものなのでしょう。

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